続 ネット時代のパーソナリティ

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Part4
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Part5

前回の続きです。
若干、2chに関して乱暴に話を展開してしまったなあ、と反省しています。

「匿名での発言は組織のパーソナリティに還元される」という自分の発言がそもそも共同幻想で、それをユーザー自身も無自覚かもしれないけど乗っかっている、っていう構図があるんではないかなあ。

先日の「勝間和代 × ひろゆき」の一件も、この「共同幻想」が話の中心なんじゃないかと思っています。ひろゆき自身は、「共同幻想」にのっかるユーザーに対して、はしご外しのような突き放した文脈でしゃべっているのに対して、勝間和代はそれらのユーザーに対して救済的な啓蒙をしています。

勝間和代のブログ炎上も、啓蒙に対しての嫌悪感ならまだ理解できます。ただ、「何をしゃべったか」というよりは「どうしゃべったか」という点にばかりフォーカスがより過ぎているように思えてなりません。

もうちょっと整理して、書くなり喋るなりしようと思います。


勝間和代公式ブログ: 私的なことがらを記録しよう!!: 堀江貴文さん×西村博之さん×勝間の座談会、内定しました 勝間和代公式ブログ: 私的なことがらを記録しよう!!: 堀江貴文さん×西村博之さん×勝間の座談会、内定しました
これ、楽しみですね。

ネット時代のパーソナリティ

友人らとPodcast配信のトークラジオを始めました。
monthly camo vol.2「ネット時代のパーソナリティ」

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Part1

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Part2

◆はじめに

「ネット時代のパーソナリティ」このフレーズは、メンバーがTwitterでやりとりをする中で偶然に現れた。最初は「すげえ新書のタイトルっぽい」と、嘲笑気味に唱えていたが、よくよく考えると掘り下げがいのあるテーマになりそうじゃないか。ネットにおけるIDとはなんなのか?単なる記号的な意味合いしか持ち合わせていないのだろうか?そこに、自己を投影しているんじゃないか?ネット上の自己と現実の自分に差異はあるのか?考え始めると疑問は沸きあがり止まらない。
そんなわけで決まった今回のテーマ、「ネット上におけるパーソナリティとは何なのか?」という話を、メンバーが体験したことを通して議論を深めていくつもりです。果たして、どのような結論へとたどり着くのか楽しみでもあり、あまりに大胆不敵なテーマ設定にちょっと恐ろしくもあります。それでは、どうぞお聞きください。

http://camoradio.seesaa.net/article/148680773.html

先週あたりから賑わっている、勝間和代×ひろゆきの対談にのっかってみます(収録は、例の話題以前ですが)。
Part5まで配信します。

2010-05-05

勝間さん対談の睡眠不足の反省と、幸福論 : ひろゆき@オープンSNS

ひろゆきさんとの対談について、心から非礼をおわび申し上げます- 勝間和代公式ブログ: 私的なことがらを記録しよう!!


あ、Podcastもよろしくお願いします

そして皆呪われた

ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破
キャラクターやストーリー、なんかあらゆる物が事象というか記号というか、とにかく物量で押しきられたような。そんなこと書いても、「けど、エヴァってそういうものでしょ」って言われんのかな。
「自立」とか「愛」とかを臆面もなく描く、テレビ版最終話とは違い正面から描く、そういう意志を感じはしたけど、それと映画として面白いかどうかって別だしなあ(@宇多丸)。
どう贔屓目に見ても、エヴァンゲリオンって現象を含んだ物語性とセットでしか楽しめないと思ったよ。てか、10年以上経って未だに振り回されるって、呪縛以外の何物でもない。

というか庵野の禊に付き合わされた。されてる。

椿姫

東京文化会館の資料室に用事があったんだけど、大ホールの前を横切ると、どうやら今日は二期会主催の「ラ・トラヴィアータ(椿姫)」が上演されるようだ。聞いてみると安い当日券もあるみたいなので、本当にふらっとオペラを観ることにした。


ん〜、先ず思った感想としては、締まりのない舞台だったなあ。今回演出の宮本亜門はちゃんとこの台本と楽譜を読み込んだんだろうか?

自分が一番気になったのは、社交会・パーティの場面において、ヴィオレッタとアルフレード以外の登場人物の扱いについてだ。
合唱を担う群衆は黒い出で立ちで、群衆という匿名性を高めている。その反面、主役以外の登場人物達は特別な衣装を身にまとい、コロスとの差別化を明確にしている。そしてあたかも主役に準ずるかのように立ち振る舞うわけだが、これが解せない。
ヴィオレッタ、アルフレードの関係者だけが浮き上がるという漠然とした演出では、全体を幻想的なイメージでまとめるにしても、「誰の」幻想なのかがわからず、ピンぼけも甚だしい。
それにトラヴィアータの美しさって、社交会のような有象無象の中で、ふと彼らだけにフォーカスが寄るその儚さだと思う。既にその状況だけで幻想が成立しているはずなのに、蛇足感は否めない。

もちろん、宮本亜門の方向性でたどり着く正解もあったのかもしれないが、とりあえず今回に限っては散漫な印象で終わってしまった。

カーテンコールで宮本亜門にブーイングが起こっていた。彼らの心情はわかるけど、あんまり気持ちのいいものではないなあ。

あとは歌手陣が…
けどバリトンの小森輝彦さんは歌唱もさることながら、演技力で舞台を引き締めてましたね。

一人称の選択

http://anond.hatelabo.jp/20090124211848
ブコメでも書いたけど、増田を読んで昔の記憶が甦った。

4歳か5歳だったか、ものごころついたとき自分の一人称は「名前」だった。「jununは〜したい」とか「それはjununのだ」とかそういう感じ。疑問を抱いたことはなかった。
自分の呼称の問題が明るみに出たのは、ある日父親にその言動を注意されたからだ。
「そろそろ、それを改めたらどうか(のような内容)」
子供の言い分としては。だって大人はみんな自分のことをjununと呼ぶんだから「自己=junun」と思い込んでしまっても、不思議じゃないんじゃないかしら?それに今なら、その論だけで言えばそれなりに正当性はあるんじゃないの?なんて思えるけど、その時は父親にそういう物言いで嗜められたことがただただ恥ずかしく、自分は自分の一人称を選ぶことにした。

  • 「俺」

テレビや漫画で目にするし、父親や兄も使っていた。ただ、一人称ビギナーにはあまりにハードルが高すぎる。「俺は…」と言ってしまった瞬間に、今迄自分が思っていた「自分」とは違う不相応なキャラクターが表れてくるようで、なんだか扱いづらかった。

  • 「自分」

自分は自分なんだから自分は自分だろ。というなんだか倒錯した考えをもとにしばらく使ってみたけど、父親に「それは変だからやめなさい」と言われておわった。

  • 「僕」

なんだか可もなく不可もなくといった印象で、馴染むかんじではなかったけど違和感はなかったので、そのまましばらく使い続けた。そのうち「俺」に以降するんだけどね


すごく印象でしかない、漠然としたことを書いてしまったんだけど、こういう疑問てみんな通過したりしてるのかな?みんなはどの時点でどういう一人称を選択していったのかな?なんて事を思った。
自分にとってこの選択って、社会(家族や地域コミュニティ)ってものを初めて相対的に捉えた瞬間なのかもなあ。

ジャンニ・スキッキ

プッチーニ作曲「ジャンニ・スキッキ」を聴きににイタリア文化会館へ行ってきた。500〜600くらいの座席は満席。
今回は、プッチーニ生誕150年ということで、イントロダクションとして、生前のプッチーニが映るフィルムを鑑賞したり、物語の概略やモチーフの説明などを演出つきで行われた。客席が近いことで醸される雰囲気。悪く言えば「緩い」なんだけど、ホームパーティのようで嫌いじゃない。
ダリオ・ボニッシのナレーションで本編が始まった。ダリオの演出を観るのは初めてだったが、音楽とテキストのツボを押さえた、オーソドックスでよい演出だったように思う。
「歌」と「声」で魅せる歌手が少なかったのは残念だ。そんな中、リヌッチョの方は出色でした。名前を後で調べよう。
本来は笛田博昭さんだったんだけど、急遽降板されたようです。笛田さんも聴きたかったな。

ソウルオペラ Magic Flute

友達が行かれなくなったというので、チケットを譲ってもらった。
モーツアルトの「魔笛」を、アフリカンミュージックにアレンジしたという代物。演奏会のチラシ束でちょくちょく目にして気にはなってたので、ちょうどよい機会でした。

国際フォーラムのCホール。客入は6割ちょいと芳しくない。

開演時刻近くに、ぞろぞろと演者(奏者)たちが出て来る。キャストはおそらく全員黒人のようだ。街の雑踏のような情景から幕が開いた。
マリンバで演奏される序曲や、タミーノの「助けて」、小鳥のラインダンスで始まるパパゲーノの「鳥刺」など、開演後2、3曲すぎたころふと思う「あれこうやっちゃうの?」。アレンジはアフリカ風で、歌手はオペラ調。なんだか「アフリカ」「オペラ」というキーワードに捕らわれ過ぎていないか?聞いていて、なんだか開放感はないし、モーツアルトの音楽的な高揚感は壊されているし。いや、あえて壊しているのだとしても、必然性がほしいんだ。ところどころ面白い曲(タミーノのフルートをトランペットアレンジしたものとか)は確かにあった。ただ、1曲ずつのシングルカットなら「面白い」でもいいんだけど、舞台はそれでは成立しないと思うんだ。
疲れてたのもあって休憩で帰らせてもらった。

ヘンデルのメサイア 〜 ソウルフル・セレブレーション

ヘンデルのメサイア 〜 ソウルフル・セレブレーション

クインシー・ジョーンズプロデュース。コンピレーションだけどメサイアのソウルカバーはいいよ。とっても自由で。ここまでメタメタにして、意味とかすっ飛ばすってのも選択肢としてはあるよな。